大海で1人、自由形

私を幸せにしたい私のブログ

10年分の日記

10年前の今日、世界で一番大好きだった人が死んだ。

 

なんて、大袈裟な書き出しをしてみた。まぁ事実なので大袈裟ってわけでもないとは思うけれども。わかりやすく書くと、10年前の今日、お父さんが死んだ。そこにもう一つ付け加えるなら、10年前の今日、私の人生が変わった。10年間、なかなか吐き出せずにいたことや感じたことに区切りをつけたくなった。だからこのブログの最初の記事にこのことを書くことを決めた。

 

 

お父さんが死んだ時のこと

2011年7月4日 月曜日、夜の8時40分くらいだったと思う。前の日は習い事のステージがあった。その日の晩御飯は鯖の塩焼きだった。晩御飯を食べた後、ピアノの練習をしていた。家の電話が鳴った。今までこんな夜遅い時間に電話が鳴ることなんて滅多になかったから、心底驚いた。お母さんが電話に出たのを見てピアノの消音ペダルを踏んだ。お母さんの声色とか何も気にしてなかった。電話を切ったお母さんに「お父さん倒れて心肺停止やって、今から病院行くから準備して。」と言われた。私はまだ普段着を着ていたし持ち物も少なかったから準備に時間がかかったのはお母さんの方だった。お母さんが準備している間、私は小学2年生の時に林間学園でお父さんへのお土産に買った紫のような青のようなウエストポーチに小学3年生の時、家族旅行で行った長野で買ったカップルのカッパが顔を近づけると磁石でキスするストラップを入れて、それを抱えながら人生で初めて神様と仏様に心の底から祈った。どうか、お父さんとまた話せますように、ドライブに行けますように、家族3人で旅行に行けますように。病院に行ったら、気まずそうな顔したお父さんに会えますように。お父さんが無事なら少しくらい私に病気移してもいいから。神様も仏様も、私の祈りを聞いてくれるほど暇じゃなかったみたいだった。特急に乗ってお母さんに連れられて行った病院は大きな大学の附属病院だった。(後から知ったけど、その大学は今私が通ってる大学だった。運命?)緊急治療室だか何だか知らないけど、白くて大きい部屋に通された。先生っぽい人が、お母さんに「ご愁傷様です。」と言ったのを聞いて、手遅れだったことを知った。でもその後、先生が「声をかけてあげてください。」なんて言ってきた。動揺していた頭が、その言葉でさらに混乱した。死んだんじゃないの?それなのに声かけるの?なんで?呼んだら起きるんですか?目の前の、もう胸を切り開かれて、雑くY字に縫い上げ終えられて、半目のまま動かなくなった、お父さんは戻ってくるんですか?死んだお父さんの頬を軽く叩いた。「お父さん、お父さん、」

冷たくて、気持ちが悪かった。怖かった。

その後、私とお母さんは警察に案内された。お父さんはどちらかというとまだ若い方だったから、一応殺人の線がないかお母さんから話を聞くためだった。だいたい夜の12時くらいだった。お父さんの妹夫婦が来て、お母さんが警察の人と話してる間、待合室で待った。話はしなかった。しばらくして、お母さんの兄夫婦も来た。親戚の中では私が一番年下だし、従兄弟たちの中では唯一の女子だったから心細かった。誰とも会話はしなかった。できなかったという方が正しいのかもしれない。その時の私は、まだお父さんが死んだのを信じていなかったかもしれない。その日、結局家に帰ったのは夜中の2時を過ぎたくらいだった。次の日、私はお母さんとお父さんの死体安置所に行った。理由は忘れたがお父さんの臓器は取り除かれることになった。お母さんがその説明を受ける間、私は車の中でお父さんが好きだった曲を聞いた。何も考えたくなかったし、何も信じたくなかった。そして更に次の日、お父さんは家に帰ってきた。キンキンに冷えた状態で。

臓器の代わりに綿を詰められ、キンキンに冷え固まり、スーツを着せられて、数珠を握らされたお父さんが家に帰ってきた。仏壇の部屋に寝かされることになった。その日から、通夜の日まで私は冷房が強めにかかったその部屋で、お父さんの隣で、その日までと同じようにお父さんの隣で寝ることにした。お母さんはそんな私を見て笑ってたけど、たぶん夜は1人で泣いてたと思う。通夜の日までの間、お父さんの会社の人や、昔のお友達が家にたくさん来た。みんな、お父さんの顔を見て泣いた後、お父さんの隣に座る私を見て悲しそうな顔をしていた。あぁ、今私は可哀想にって思われてるんだなぁ。なぜか冷静にそんなことを考えていた。お父さんとの最期の夜は、お父さんの好きな曲を流して寝た。通夜の日も、葬儀の日も、私は泣かなかった。遠くから来た親戚、友達や担任の先生や、全然知らない人たち、そしてお母さん。泣いてる人はたくさんいた。私を見るなり抱きしめて泣きながら「かわいそうに、こんなかわいい子を残して逝っちゃうなんて…」そんな風に言われたりもしたけど、やっぱり私は泣かなかった。後からお母さんに聞くとあの時の私は、妙に冷静で逆に心配だったらしい。それは……心配かけてごめんやん。  もちろん悲しかったし辛かったけど、なぜか涙は出なかった。一周回って引っ込んだ的なやつだと思う。骨になったお父さんと、黒焦げになってへしゃげた眼鏡のフレームを見て、ふと思い出した。お父さんが、「鳥の皮が美味しいお店に連れて行ってあげるから楽しみにしとき」って言ってたこと。結局連れて行ってもらえなかった。お父さんは嘘つきだ。そんなことを考えてちょっと腹がたったのを覚えている。

 

 

お父さんと私のこと

お父さんが病気だってことは、なんとなくだけど知っていた。心臓の病気。幼稚園の年長の時に入院して病院のベッドでよく分からない小説を読んでいた。表紙に、ダニの絵が描いてた気がする。余命5年と宣告されていたことは知らなかった。しっかり5年で死んでしまったんだなぁ。2011年の春、私は初めて海外にお母さんと行った。お父さんとも一緒に行きたかった、とその時は駄々をこねたけど後から考えたらもう、お父さんにそんな体力は残ってなかったのかもしれない。一緒に海外は行かないくせに、なぜかパスポートは撮り直したお父さんはどんな気持ちだったのか、考えるだけで吐きそうになる。お父さんのパスポートの写真は、医者でなくても判断できるくらいに顔色が悪かったし浮腫みも酷かった。心霊写真かと思うくらい酷かった。お父さんはタバコとお酒が大好きだった。いつだったか、庭でタバコを吸うお父さんに「タバコって身体に悪いんやで。やめてよ。」と言ったことがあった。お父さんはへらっと笑って「お父さんは逆にタバコ吸わな死んでまうねん」と返した。なんだよそれと思いながらもその時は無視したが、吸っても吸わなくても結局死んでしまうんだったら、たしかに好きに吸わせてあげて正解だったのかもしれない。と後になって思った。タバコの銘柄は、セブンスターだった。 お父さんは焼酎が好きだった。小さい時、水だと言って焼酎を渡されて知らずにがぶ飲みしてしまったことがある。将来的にも焼酎は飲みたくないな、と思った瞬間だった。絶対許さんからな!!!!!!

お父さんと私は、そっくりだ。顔が、めちゃくちゃにそっくりだ。お父さんの遺影と学生証の写真がそっくり過ぎてちょっと笑えないレベルにそっくりだ。自分の顔を見て、お父さんを思い出して、ちょっと寂しくなるくらいには似てる。悔しい。私の最近の悩みである激重一重もお父さん譲りだ。(クソ〜!!!!)  多分だけど、お父さんは私のことをとても可愛がっていたと思う。多分、私のことを世界で一番好きなのはお父さんだと思う。それくらい愛されてる自覚があった。2人でドライブに出かけることをデートと呼び、デートで美味しいものを食べた日には「お母さんには内緒やで笑」みたいなやり取りも何回もした。ドライブの時、私は絶対に助手席に座った。お父さんの好きな曲をたくさん聞いた。BeatlesのLet it beをレリビーと呼び、マイケルジャクソンの映画も観に行った。ブルースブラザーズもスティービーワンダーも、カッコいいと教えてくれたのはお父さんだった。人生で一番初めに好きになった曲はGENESISのInvisible touchだ。今も一番好きな曲。ライディーンもPsychic MagicもMr.Robotoもね。おかげでお父さんの曲の趣味がしっかりがっつり私に残っている。今なら好みの曲で語り合えるのに、なんで死んだんだあの人。(すっとぼけ) お父さんとは毎朝、電話をしていた。お父さんの声を聞いて、起きて、学校に行く準備をする。そんな感じだった。だから、お父さんが死んだ日も、朝電話した。しかしこれが残念なことになにを話したか全く覚えていない。仕方ないよね。だって死ぬなんて思ってないんだもん。ただ、いつもみたいに電話越しにチュッてしたのは覚えてる。今思うとちょっとキモいな……(おい) まぁそれくらい私とお父さんはラブラブ()だったというわけだ。

 

 

 

お父さんが死んだ後のこと

お父さんが死んだ後の夏休み、私とお母さんはまた2人で海外に行った。アメリカのヨセミテ国立公園に行った。大自然に、悲しいことも辛いことも何もかもあの自然に溶かしてしまいたかったんだと思う。実際、ヨセミテでの1週間は私とお母さんにとって救いだった。人生で一番美しい星空を見た。空の端から端をまたぐ流れ星。雷に打たれ、中身が空洞になっても生き続ける大木。そこにあった全てが、美しくて力強くて、ヨセミテにいた1週間は毎日何かしらに感動していた。ヨセミテから帰ってきてからは、2人で出来るだけ明るく過ごした。たとえ本心じゃなくても、嘘だとしても明るく過ごせば心がついてきてくれると思ったからだ。はじめはそれで大丈夫だった。大丈夫だと信じていた。けれど現実はそんな簡単じゃなくて、もっと苦しかった。先にガタが来たのはお母さんだった。情緒不安定になって、眠れなくなった。そんなお母さんを見て、私はお母さんが元気でいられるくらい私が元気でいようと思って、明るく振る舞い、なるべく1人でなんでもできるようになろうとした。でも私はそんな器用な人間じゃないので、出来なかった。

 

私の病気

中学3年生くらいから、私は様子がおかしくなった。それまで当たり前に出来ていたことが出来なくなった。それまでなにも感じなかったことに対しても敏感になった。でも、知らないふりをした。そしてそのまま私立の高校に進学した。高校1年、今までにない生活リズムに難しい授業、私は怠惰な人間なのでどんどんダメな方に流されていった。ダメと分かっていて流された。部活にも入った。厳しい部活だったけど、まぁ努力した。あまり、馴染めてないのを感じていたけれど、そんなことを気にする余裕すら無かったような気がする。夜、眠れなくなった。夜更かしとかではなく、眠れなくなった。目を瞑っても、眠気が来ても眠りに落ちることができなくなった。ひどい時で1週間で3時間程度しか寝れない時もあった。寝たくても、寝れなかった。そうして、色んな異変から全て目を逸らし続けたツケが回って、私の体と心はダメになった。無断で1週間学校を休んだ。親のふりをして学校に連絡を入れて休んだ。どこに行ったらいいかもわからず、1日を駅のトイレの中で過ごし、なんともないような顔で「今日も学校疲れた〜」なんて言って家に帰った。我ながら、最悪だったなと思う。そして、金曜日についにバレた。トイレの中で籠っている時に、親から大量のLINEと着信が入り、怖くなって無視した。そのまま私は電車で山間部の方に行った。もうこのまま死んでやろうかと思った。理由なく、死にたくなって、どうしようもなかった。でも結局、そんなことできるはずもなくて、家に帰った。

それから、親に泣かれ説教され謝られ呆れられ、学校にも謝りに行って、それで、私はしばらく学校に行かなくなった。行けなくなった。全身が動かなくなった。力が入らなくて、鉛のように重くて。しばらくそれが続いてから、今度は胸のあたりが痛くなった。座っても寝転んでも息をしても息を止めてもギリギリと胸が痛かった。私は救急車で搬送された。診断の結果、ストレスから来る神経痛だった。ついでに他の診察も受け、最終的には躁鬱だと診断された。はは〜ん、なるほどね。精神安定剤と入眠剤を服用し始めたのはそこからだ。躁鬱になった、なんてあんまり大きな声で言えないし言うようなことでもない。(1部の友人には言ったけど) 休んだり早退したりを繰り返しながら結局私は高校生活をずっとギリギリな状態で過ごした。体調的な意味でも、勉強的な意味でも。今思えば、本当に私は高校生活ダメダメだったなぁ。今まで出来てたことが出来なくなるって、思ってたよりもずっとしんどいもんだったな。 今でも、薬を飲まないと寝れないし、動けなくなる日もあるし、病院にも通ってる。(担当のお医者さんがミキの弟の方に似てて毎回ちょっとクスっとしてる) 病気を言い訳にするなって、怒られることもあるだろうけれど(実際怒られた)、まぁこれはあくまで個人的な感想だから許して欲しい。いつかは自分で「あれは言い訳だったな〜」って反省できるようになるからさ。

 

これからの私

ここまでダラダラと10年分の日記(と言えるかどうかは不明)を書いてきたけれど、結局それは全部もう過ぎて終わったことなので今更どうこうって話ではない。いくら泣こうが怒ろうが悲しもうが、お父さんは死んだし、私は病気だ。でも、だからって今が別に不幸だとは思ってないし、むしろ私は恵まれている方だと思っている。趣味も充実しているし、友達もいる、大学ではそれなりに勉強もちゃんと出来ている(はず)。どこにでもいる普通の女子大生だ。ただ、その女子大生を形作っているものが少し風変わりなだけ。これからは、過去にあった"色々"を心の中の箪笥にしまって、時々引っ張り出したりしながら、生きていく。たま〜に、思い出して、ちょっとセンチになったり死にたくなったりしながら、生きていくことに決めた。

 

 

もう声も顔も、朧げなお父さんへ

 

私、こんなふうになりました。

生きるよ。